室町幕府時代、足利尊氏率いる北朝、後醍醐天皇率いる南朝とがあり、南北朝時代といわれた。この吉野は後醍醐天皇の南朝があった場所。話の流れ的に北と南の王朝が両立したいきさつは理解できても、後醍醐天皇はなぜこの〝吉野〟にこだわったのか。私はとても疑問だった。実際に訪れてみればその理由がわかるかも?そんな気がして足を運んでみた。
なかなか行きにくい吉野
関西圏の土地勘が無いのと、JRの関西フリーパス2DAYSという切符をつかったので、いけるところまでJRでいき、近くから近鉄を乗り継いで行く。。山の中なので電車も単線で揺れる揺れる。離合離合。止まる止まる。乗り継ぎと各駅停車は結構な時間がかかるので、大阪から直行、近鉄特急を強くおすすめする。
私はこのあと用事も無く、特に急ぐ理由もないので、鈍行列車でゆらゆらと向かった。
しかし、時期は4月。春の桜本番。全国から吉野千本桜をめがけて全国から人が押し寄せる。
駅周りが埋め尽くされる想像を超えた人に圧倒される。
まるで後醍醐天皇の出兵時の軍勢を見ているようだ。
この山をこの何倍もの兵で埋め尽くしていたのかも知れない。
想像が膨らみ早くもワクワクが止まらなくなってきた。
軍事要塞 金峯山寺(きんぷせんじ)

そもそも今のお寺からは想像できないんだけど、昔のお寺は武力を持っていた。信長を長らく苦しめた比叡山・延暦寺や本願寺と聞くと思い出すんじゃないだろうか。
この金峯山寺も例外ではなく、近くの高野山などに戦いを仕掛けていたみたい。この地の隅から隅まで知り尽くした山伏戦闘勢力はすでにここにあったわけだ。〝北朝(足利尊氏)を倒せば天下は自分たちのものだ〟となれば一致団結する事も容易に想像が付く。
この山奥というロケーションが〝天然の要塞〟だってこと。攻めてくる側もかなりの土地勘がなければ攻めあぐねるだろうし、例え攻められても、高野山や熊野へと逃げる鉄壁の守り道があった。
もう一つは、近くに銀山があり、金塊もとれたそう。更に吉野は大阪や奈良から高野山への物流の拠点で、自然と〝ヒト・モノ・カネ〟が集まったという地の利が揃っていたという訳。
後醍醐天皇はここで散る美学を貫いた

北が煌びやかな京都の〝華〟なら、南は質素で厳格な〝詫び〟。茶の世界に通じるわびさびの世界観。
時の権力者は、満開の桜の下で花見を行った。我こそが権力者だ!という証のように。
だからこの地には〝千本桜〟が必要だったんだ。
山というのは人間界と神仙会、俗と聖の狭間。自らの存在を人間から神へと神化させようとした。そしてこの地で日本の美の頂点のある山いっぱいに咲き誇った〝千本の桜〟に囲まれて神になることを選んだのではないだろうか。「我こそが真の権力者である」ことを世に知らしめるために。
彼の美学を貫く最高のステージがこの吉野だった訳だな。
お茶の菓子に桜餅でお茶を一服
吉野葛が有名なので参道では葛餅ばかり売ってる。葛餅ってあんまり得意ではない。
う〜ん。ベタだけど、この眼下に広がる桜を愛でながら桜餅でお抹茶をいただきたい。
桜の花びらの塩漬けをあしらい、その赤みを、後醍醐天皇が夢見た「復興の情熱」に見立てて。
後醍醐天皇が正客に座ってお茶を一服点てる。
そして私はこう挨拶する。
「散ることは終わりではなく、次の芽吹きへの約束。殿下、この桜餅の甘さは、またいつか必ず訪れる春の味でございます。」と。